F PRIDE 講師紹介
榎戸比規(えのきどひのき)
東京都青梅市で生まれる。
中学受験を経て、明治大学付属中野八王子中学校入学。
同高等学校を卒業。
アメリカ留学の為の専門学校に入学。
カリフォルニア州立大学チコ校を卒業。
帰国後、イベント会社に就職。
学習塾に就職。別の学習塾に転職後、独立。
F PRIDE立ち上げ。
《F PRIDE名前の由来》
F … Future 未来 Faith 信頼 Face 顔、向かい合う Fun 楽しみ
PRIDE …誇り、自尊心
この名前は私の願いである、子供達に自分の未来に誇り、自信を持ってほしい。生徒と向かい合い、信頼関係を気づき、生徒の未来に貢献したい。
そんな思いを込めて、この名前を付けました。
詳細プロフィール
※私の小さな時から今までの出来事を書いています。
お時間が許す限り、読んでみてください。
幼少期
私は、自営業をする父とそれを支える母の間に次男として
生まれました。
生まれ育った場所、青梅は東京都の田舎町。
外に出ればみんなが知り合いというぐらい、
ご近所さんに良くしてもらいました。
その頃から始まった、「人が好き!」
幼い頃から、自分の友人、兄の友人、両親の友人。
関係なく飛び込んでいました。
学生時代
小学校5年生から学習塾に通いだしました。
小学生ではサッカーと遊びに夢中でしたが、
学校の成績は真ん中あたりだったと思います。
成績の良かった兄は中学受験をし、私立の中学校へ入学しました。
兄とは違い、遊んでばっかりで、家で勉強する姿など見た事もない。
と、心配した母に強制的に学習塾に入れられました。
兄が行っていた学習塾だし、
友達と遊べなくなるし、
勉強なんて嫌いだし、
絶対に嫌だと、何度も駄々をこねました。
強制的に連れて行かれてから、一ヶ月後、行く事が楽しみになっていました。
「新しい友達ができた!面白い先生がいる!」
それだけの理由だったと思います。
違う学校に通う友人が出来た事は新鮮でした。
何よりも楽しかった理由は先生でした。学校では無いような授業でした。
授業時間はただ問題を解くだけではありませんでした。
前に出て発表をしたり、
時には友人と一緒に1つの問題に取り組んだりもしました。
先生の経験談などもよく話してくれました。
特に先生が話してくれた旅行の話など、すごく興味を持った事を
今でも覚えています。
小テストや確認テストが多くありました。
出来た時は凄く褒めてくれました。
もちろん怒られる事もありました。
他の生徒の前で褒められる事は凄く自信に繋がりました。
褒められる為に、努力をしました。
褒められる事から成長を感じたとき、成長している事が楽しくなりました。
また違う学校に通う友人が出来た事も大きな出会いでした。
学校が違うからこそ、「負けたくない」という気持ちが生まれました。
先生に褒めてもらう為に、
また友人に負けたくないという思いでする勉強は楽しかったです。
それから一年。
6年生になり、大好きなサッカーを辞めなければいけなくなりました。
その頃の受験戦争では、毎日の塾通いが当たり前でした。
ましてや、他の習い事なんかに時間は取れませんでした。
未練はありました。
放課後の校庭でサッカーをしている元チームメイト達を
遠くから眺めていた時もありました。
諦めた事が辛く、悔しかったのを覚えています。
塾へ行く事がまた少し嫌になりました。
「みんなはサッカーが出来るのに、自分だけ。」という気持ちでした。
そんな時に、先生からは志望校への見学を進められました。
先生が推薦してくれた学校は広大なグラウンドを持っていました。
芝のグラウンドを初めて見て、私には新しい目標ができました。
「あのグラウンドでサッカーがしたい。」
それを先生に告げた時、その目標をすごく応援してくれました。
その目標の為に、更に意識を高く持ちました。
6年生の1年間はほぼ毎日のように塾に通いました。
通い続けられた理由は
友人に負けたくないという思い。
先生が面白かった。
そして、先生に応援してもらった「目標」があった事。
の3つだと思います。
それらのおかげで
無事に志望校の中学に合格し、そこで中学、高校と6年間を過ごしました。
高校卒業後の進路を決める時期、
中学高校と友人達との遊びに夢中だった私の成績は…
下から数えた方が早いほどでした。
小学校の頃あれだけ勉強したのに、中学高校ではほとんどしませんでした。
私が通っていた明治大学付属はエスカレーター式でした。
最低限やっていれば大丈夫と、部活と遊びに熱中していました。
その時は目標も無く、その日が楽しければ満足でした。
わからない事があってもそのままにして、どんどん置いていかれました。
特に英語。「何をやって良いかわからない。」
英語なんて勉強する必要がないとまで思っていました。
しかしそんな私の選んだ高校卒業後の進路は“アメリカ留学”でした。
突拍子もない私の選択でしたが、沢山の方々に背中を押してもらいました。
友人は私の夢物語をよく、聞いてくれました。
特に父親は強く応援してくれました。
私よりも積極的に留学について調べ、
私が留学する事を楽しみにしてくれました。
もちろん、私の将来を不安に思い反対する先生方や友人もいました。
「おまえに出来る訳がない。」と。
「なんで渡米するの?」
その時よく聞かれた質問です。
英語が好きでもないし、得意でもないし。
ましてや、苦手なのに。何故?と
それは1つの不安から出した自分なりの結論でした。
とにかく友人と遊ぶ事に夢中だった、中学校高校の6年間。
楽しい思い出しかありませんでした。
ただ、なにも目標が無く、なにも努力をしてこなかった事に危機感がありました。
このまま大学に行っても、自分を変える自信が無かった。
不安でした。
何かに挑戦がしたい。
もっと成長したい。と漠然な目標を立てました。
他県の大学や専門学校なども考えました。
そんな中、「アメリカ留学」という文字に凄く惹かれました。
行った事も無いアメリカ。
話す事も出来ない英語。
会った事のない人達。
食べた事もない食べ物。
何もかもが知らない事でしたが、
そのときの私には不安よりも何よりも大きな魅力を感じました。
そして、アメリカ留学を決意しました。
アメリカ生活
アメリカ生活はホームステイから始まりました。
英語が得意でない私にとって、英語での生活はただただ苦痛でした。
ホームステイ先でもうまく会話もできませんでした。
もちろんクラスでも。
笑顔で英語を使って話す周りを見て、
もっと真剣に英語を勉強しておけば良かったと、学生時代を後悔しました。
辛くて、逃げたくて、それを紛らわす為に
日本人の友人達と行動をともにしました。
逃げている事は自覚していました。
このままじゃいけないと、ずっと思って生活していました。
そんなある日、一つの転機が訪れました。
先輩留学生の所に遊びにいったときです。
アメリカで初めての一人旅、電車、バスで4時間だけでしたが、
初めての場所へ向う一人での時間はワクワクしていました。
これこれ!! 私にとってのアメリカでの初挑戦でした。
自分が経験したかった事はこれだと!ワクワクは最高潮でした。
そこにも日本人はいました。
ただ、そこにいる先輩達の顔は私の顔とは違いました。
本当に楽しそうに、活き活きとしていました。
ここに来てみよう。
すぐに転校の手続きをしました。
先輩達につられ、ブレイクダンスを始めました。
留学生の目的とはズレていたかもしれません。
ただ、出来ない事を練習する事、挑戦する事は新鮮でした。
1つ学んだものはアドレナリンでした。
一生懸命やると身体が熱くなる。
脳が活性化される気がしました。
学生生活もだんだんと慣れてきました。
しかし、授業内での数多くのプレゼンテーションは苦痛でした。
一学期中に何回もあるプレゼンテーションの課題。
ある時は100人近い生徒の前で。
ある時は初めて会う4、5人のアメリカ人とグループで。
本当に苦しかったのを覚えています。
「こいつは何が言いたいの?」
「何語を話しているの?」
そんな言葉が聞こえてくる気がしました。
どんどん嫌になりましたが、やらなければいけませんでした。
教授にお願いして、空いた時間に練習につき合ってもらいました。
友人にお願いして、発音も治してもらいました。
それでも嫌でした。人前で話す事が怖くなりました。
手が震えたし、なんどもトイレにも行きました。
ただ、それよりも怖かったのが逃げ出す事でした。
卒業しないで帰国することが一番怖かったのです。
挑戦する為に、経験する為に留学したはずなのに、挑戦もせずに逃げる事。
成長したと自信を持つはずが、
卒業できなかった、逃げた、と自信をなくす事がすごく怖かったのです。
改めて、目標を立てました。
「卒業する。」
すると、自分のするべき行動が見えてきました。
1つ1つに課題をこなし、授業を受けました。
そして、留学生活最後の課題である、1時間のプレゼンテーションを終えた時
心から“やればできるんだ”と思いました。
アメリカでの留学生活では、英語ももちろんですが、
何よりも学んだ事は
「挑戦する事」
「諦めずに続ける事」
そしてなにより色々な人がいて、
色々な生き方があるという事でした。
人と関わる仕事
帰国後、イベント会社に就職をしました。
とても大きなイベントの企画と運営が主な仕事です。
楽しい事、新しい事を作りたかったし、
人と関わっていたかったという思いを持っていました。
しかし、現実と理想の違いを感じました。
主な作業は裏方でした。
裏方の作業は辛いと感じていました。
裏からみるイベントは、人と離れていっているという気持ちでした。
自分が楽しませている実感、必要とされている実感が無かったのです。
それでもイベントの参加者とのふれあいは楽しく。
その時間だけが、自分にとって人に関われている時間でした。
もっと人と関わって、人の笑顔の為に働きたいと思いました。
そんな思いはどんどん強くなっていました。
子供達の為に出来る事
ある日、取引先のボランティア団体の活動に参加しました。
子供達にスポーツを教えるというシンプルな活動。
一日かけての活動は子供達と遊ぶという事がメインでした。
そして、イベントの終わりに
子供達から言われた“ありがとうございました”という言葉。
転職を決めたきっかけでした。
ボランティアの日をきっかけに自分が人の為に直接出来る事を探しました。
あのボランティアでは子供達に元気をもらいました。
子供達が笑顔で、大声を出して走り回る姿は凄いパワーを感じました。
普段は大人に向けてのイベントを企画していた私にとって、
その日は新鮮な事ばかりでした。
何か新しい事を期待する子供達の目はキラキラしていました。
教えてもらった事を身につけようとする子供達はすごく真剣でした。
「目標」をもって、それに没頭する姿は、
私が忘れていた何かを思い出させてくれる様な気がしました。
何事にも真剣に、ただ出来るようなろうと努力する姿に心打たれた様でした。
こんな風に子供達と関われる仕事、子供達の為になれる仕事…。
私が子供達に提供できる事を探しました。
そして塾の講師という仕事にたどり着きました。
退職を申し出て中学、高校のテキストを買って勉強しました。
もちろんすぐに塾の先生に慣れる訳でもなく、
塾の採用試験には何度も落ちました。
ただ、諦めたくはありませんでした。
アルバイトをしながら、勉強し直しました。
自分の天職がこれかどうかはわからないけど、やってみたいと思いました。
塾講師へ
そして一つの塾で働かせてもらう事になりました。
小学生、中学生の集団授業、個別授業を任されました。
初めての集団授業のとき、事前の準備にも熱が入りました。
生徒の反応を想像し、質問が出るであろう問題をシミュレーションしました。
そして、授業のとき、あの感覚を久々に味わったのです。
始めこそ、新しい先生に対する不信感はあったものの
授業は真剣に聞いてくれました。
この子達に少しでも伝えたい。
1つでも新しい事を身につけて欲しい。
と私も授業をしました。
一人の生徒が首を縦に振って頷く姿を確認し、より熱が入りました。
質問してくれる事が嬉しくて、更に熱が入りました。
「そういう事か。」というつぶやく生徒の声に、
頷いてくれる生徒の姿に、
生徒それぞれの言動がすごく嬉しく思いました。
あの感覚、アドレナリンが出ている感覚を再び味わいました。
あっという間に授業が終わり、生徒を見送りました。
「これだ!」と私は確信しました。
当時は中学3年生の英語と国語の一斉授業と
小学4〜6年生の生徒達の算数、数学の個別授業を担当していました。
それぞれの子供に課題があり、どんな教え方をすればわかりやすいのかを
試行錯誤していました。
なによりも重要で、またなによりも難しく感じた事が
生徒のやる気を上げる事でした。
一回一回の授業で、目的を意識させました。
また、それぞれの単元が何に繋がるか、何の役に立つかを話しました。
授業内容から逸れて、私の経験や、生徒達の夢の話や将来の話もしました。
生徒達からの質問には、それが授業に関係あろうがなかろうが
1つ1つ答えていきました。
目に見えて結果が出てきました。
もちろん子供によって差はありましたが、
なによりも意欲が伝わってくるようになりました。
生徒達や保護者の方からも嬉しい言葉を沢山頂きました。
「先生の教え方はわかりやすい」
「宿題が多いと文句は言いますが、塾に行くのは楽しいみたいです。」
「塾の話を良くしてくれるようになりました」
など凄く嬉しく思いました。
同時にもっともっと子供達に貢献したいと思いました。
もっと多くの子供達に貢献する為にも
もっと自分の成長が必要だと感じました。
そして「自分の塾をつくりたい」という目標にたどり着きました。
独立を目指して
そんなとき、目に留まった求人サイトの
教室長を募集している学習塾に話を聞きに行きました。
一人で教室を任される事は良い経験になると思い、
中3の受験を待って、転職をしました。
そこでの授業スタイルは巡回型個別授業でした。
何人かの生徒の中に私を含めた何人かの先生がいて、
わからないところの質問に答えていく形式でした。
集団授業を中心に経験してきた私には、少し物足りなさも感じました。
同時に、一人一人に違った問題点があり、
それぞれやるべき事が違うということを改めて感じました。
教室長として、保護者面談や、個別相談も経験させていただきました。
それぞれの悩み、課題、または目標を確認しながら、
保護者の方々と一緒に子供達の事を考えました。
ある日、授業の始まる前の教室に、生徒のお母様が入ってきました。
お母様の悩みは多くのお母様が一度は持つであろう悩み。
家で勉強をしている様子がない。
やる気が見えない。
翌年には受験を控えている中学2年生のお母様の悩みでした。
その日の授業後何となく、その生徒と話をしました。
部活、学校、友人、将来など、たわいもない内容の話を。
その話の中で、私自信の話、私の友人の話などもしました。
伝わるかな?と半信半疑でしたが、
その日の数学、英語の宿題を無しにして、
「将来何をやりたいか?」本気で考えるという宿題に変えました。
紙に書かなくて良いから、頭で考えるだけでいい宿題。
次の授業のあと、またその生徒に将来について聞きました。
すると、やってみたいという事が沢山出てきました。
高校生になってからアルバイトがしたい。
お金をためて、好きな物を買いたい。
海外旅行がしてみたい。
英語で外人と話がしてみたい。
ゲームをつくる仕事がしたい。
スポーツ関係の仕事にも興味がある。 などなど。
とにかくいろいろな事を話してくれました。
今、考えればその生徒は自分の未来に楽しみが見えたのだと思います。
だから、楽しそうに“夢”とはまた違う、未来の想像を思い描いて話してくれました。
それから、とにかく選択肢を増やしてあげる話をしました。
友人から聞いた仕事の話、
私が経験した旅行の話、
学生時代の話、
それから、生徒の行動は大きく変わっていきました。
成績もあとからついてきました。
私でも驚くほどのテストの点を片手に教室に来た時の顔は
私の自信にもなりました。
教室長である、喜びは凄く多く、やりがいを感じていました。
反面、責任も大きく感じました。
なによりも、生徒達の成績を上げてやることの重要性も。
授業内容に対して、何度も見直しました。
それぞれの生徒に取っての重要な事を一人一人書き出しました。
しかし、何度シミュレーションしてみても足りない物を感じました。
それが集団授業でした。
一人一人弱点を克服していく事はもちろん重要。
それぞれ違う出来ない事を1つ1つ解決していく為、
個別で教える事以外の最良の方法はない。
ただ、学校の授業は進んでいくし、
テストまでの時間も刻々と減っていく。
自分の出来ていないとこだけをやっていては間に合わない。
自分のペースで勉強していては間に合わない。
自分が出来なければいけない所を知らないといけない。
自分の課題を常に意識しなければいけない。
その為に、集団授業が必要でした。
学校で習う事を事前に知る。
その為に自分が出来ないといけない事を知る。
ここまでは生徒全員が共通して知るべき事。
それ以降は各々で課題がちがう。
個別でそれぞれの課題に向き合い解決していく。
両方必要だと感じました。
集団と個別。
F PRIDEをつくる事を決断しました。
※長文を読んで頂きありがとうございました。
最後に「これから・・・」という、私の気持ちを載せています。
これから・・・
目標は「子供達の成長」です。
その成長は経験、体験から得る物だと思います。
スポーツの経験も、旅行の経験も。
遊びや、習い事、普段の学校生活の経験も。
もちろん学習の経験も。
すべてが成長に繋がっていくと思います。
反対に、子供の成長を止める事は諦める事です。
出来ないと諦めたときに、そこで成長が止まると思います。
まだやってもみていないのに、
誰かより出来ないから、
思ってたよりうまくいかないから、
と諦めることで、成長の機会を逃します。
もしかしたらあと少しやれば出来る事かもしれないのに。
私が塾講師として、一番避けたい事は
学校の成績で、自分の未来を諦める事です。
学校の成績は友人と比べるのに、とても単純な情報です。
しかし、そのとても単純な情報で子供達は未来への期待や自信を失います。
諦める事を選択します。
私はそんな選択をしてほしくありません。
「やればできる。できるまで続ければできる。」
それを教えたいです。
未来の為に、努力し、それを続ける生徒達を増やす為の
授業を行いたいから、私も成長し続けます。
日々変わる生徒達の感情と、真剣に向かい合い、話し合い、
そして、生徒達が未来に自信を持って、期待を膨らませて、
成長していく姿を見続けて行きたいです。